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2007-11-17 22:22 | カテゴリ:その他
 小説の表現方法としての視点って色々あると思う。登場人物の行動全てが見渡せ、心の中まで見える「神の視点」とか一人称で本人(大体が主人公)の視点(自分が見聞きしたことで話が進んでいく)。佐野洋みたいに「見た」と「目を向けた」ほどこだわりはしないけど(「見た」かどうかは本人しか分からないから傍者の視点では「見た」とは書けない)、視点がごっちゃになると違和感を感じる。 
 例えば「火車」の冒頭のシーンで「本間俊介は・・・右手で手すりをつかみ、左手に閉じた傘を持って立っていた。」とあって「神の視点」って思えるんだけどそのあと「実際、座ったほうがよほど楽なのだ。午前中のうちに家を出て、理学療法をみっちり受け、そのあと捜査課に寄ってきた。」「初めてちくりと後悔した。」「そんなことを考えて、ふと思い出した。」と主語なしの表現が続くと本間俊介の心の中の独白って思っちゃう。だからこの場面は本間俊介の視点で描かれてるんだなって思ってるところへ、今度は「本間にはどうしてもそう思える。」「本間は智を振り返った。」とあると、はぁ?って思っちゃう。本間俊介の視点で書かれているのに「本間は」ってことはもうひとり「本間」がいるのかとさえ思ってしまう。めまぐるしく変わっていく。まだ章によって変えるとかであれば許せるんだけど。
 そうすると主語があるかないかで違うんだな。主語があれば「神の視点」、なければ本人の視点って感じるみたい。さっきの「火車」の表現も例えば「本間は(あるいは俊介は)」をつけるとたちまち「神の視点」になる。
 「闇の底」もそうだった。冒頭何者かが内藤信雄の部屋を訪れ内藤を殺害する場面なんだけど、地の分で「こいつは自分の知るかぎり、いつもこんな目をしていた。」って内藤を見た場面を書いてあるけど当然その人の視点だよね。で、しばらくすると「男は内藤の背中を見つめて…」ってくる。自分の視点なら「男は」なんていらない。もう一人男がいるように思えちゃう。
 確かに一人称の視点だとその人の名前がなかなか出てこないことが多い。自分の名前を自分じゃ言わないからね。だから人に言わせるしかないけどなかなかフルネームでは呼んでくれないから複数人で苗字と名前を別々に呼ばせる必要があるみたい。
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